今年も震災記念日の早朝、明石海峡大橋がパールホワイトに点灯されました。
下段はパールホワイトに点灯された明石海峡大橋と美と愛の女神ビーナス、金星。
あの日から29年。と、いうことは当時私37歳、妻34歳、長女9歳、長男6歳。突然の激しい揺れになすすべもなく食器がけたたましく割れる音が響いていました。幸い、私の家族も含め親族に人的被害がなかったのは不幸中の幸いでした。
当時は明石市内に勤務しており取りあえず出勤しようと家を出てのですが、垂水区西部から明石付近は損壊した家屋もなく屋根瓦が落ちている程度でした。ただ出勤したものの上司より退去の指示が出たので同僚とともに帰宅の途につきましたが、遙か東の空が黒くくすんでいるのがあの長田の火事だというのは夕刻までわかりませんでした。と、いうのも当時はまだ携帯電話もネットもなく、停電でテレビはつかず唯一のラジオの情報も断片的で一体何がどうなっているのかわからない状況だったのです。
午後からは義母(須磨区)の家の様子を見に行きましたがここも幸い大きな被害はなく、胸をなでおろしたもののそこから南側(長田区一帯)が大変なことになっているのが徐々にわかってきました。その後私の実家(垂水区東部)に行きそこで泊まらせてもらいました。
実家はこの地震の数年前に東灘区から引っ越したばかりでしたが、そのまま住んでいれば両親は恐らく亡くなっていた可能性が高かったのです。東灘区の家の基礎は地面に石を置きその上に柱を乗せていた、耐震とはほど遠い建造物でしたし、2階を増築して頭でっかちになっていましたからあの揺れではひとたまりもなかったことでしょう。
明石海峡大橋もこの地震の影響を受け長さが約1m伸びています。元日の能登地震では4m隆起したところもありましたが地震のエネルギーはすさまじいものです。
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